はじめに
循環器内科医として30年以上心臓を診てきました。
私たちは心臓を評価するとき、
「どれだけ強く縮むか」に注目しがちです。
エコーでも、「収縮力は保たれていますね」という説明をよく耳にします。
一方で、循環器の世界には昔から「拡張障害」という概念があります。
心臓は縮むだけではなく、十分に広がることも重要だからです。
人は亡くなるとき、心臓は大きく広がった状態では止まりません。
むしろ小さく、収縮したような状態で止まります。
このことを見ても、心臓にとって「広がる」という働きは決して受け身の現象ではないように思えます。
自然界の強さは「可動域」から生まれる
自然界を見ていると、興味深いことに気づきます。
大空を飛ぶ鳥は、羽を強く閉じるから遠くへ飛べるわけではありません。
まず大きく翼を広げます。
大きく広げられるからこそ上昇気流をとらえ、効率よく遠くまで飛ぶことができます。
チーターも同じです。
速く走れるのは筋肉が大きいからではありません。
背骨を大きく曲げ、そして大きく伸ばすことで、一歩あたりの移動距離を最大化しています。
つまり、
大きな推進力は、どれだけ縮めるかではなく、どれだけ広げられるかから生まれる
のです。


イチロー選手が実践した初動負荷トレーニング
私が興味深いと思うのは、イチロー選手が取り入れていた初動負荷トレーニングです。
その考え方の中心にあるのは、
筋肉を大きくすることではなく、可動域を失わないこと。
関節や筋肉をしなやかに保ち、大きく動ける状態を維持することで、
結果として大きな力やスピードを生み出します。
初動負荷トレーニングの考え方を知ったとき、循環器内科医として非常に納得しました。
心臓もまた、十分な可動域を保つことで本来の力を発揮する臓器だからです。
心臓も「可動域」が大切
心臓はポンプです。
そのため、どうしても収縮力ばかりに目が向きます。
しかし、心臓は縮む前に広がらなければなりません。
十分に広がり、十分に血液を受け入れ、そのエネルギーを効率よく送り出す。
その一連の流れがあって初めて良いポンプとして機能します。
実際、近年注目されているHFpEF(駆出率の保たれた心不全)は、収縮力が正常であっても、心臓が十分に広がれないために起こる心不全です。
心臓にとって「広がる力」が重要であることを示す代表的な病態といえるでしょう。
心房細動は心臓の可動域を少しずつ奪っていく
心房細動になると、心房は規則正しく収縮できなくなります。
本来、心房は最後にひと押しして心室へ血液を送り込んでいます。
これをAtrial Kickと呼びます。
ところが心房細動では、この働きが失われます。
すると心室は十分な血液を受け取れなくなり、少しずつ拡張機能が低下していきます。
さらに長期間続けば心房は拡大し、元の状態へ戻りにくくなります。
これは言い換えれば、
心臓本来の可動域が少しずつ失われていく過程
とも考えられます。


私が早めのアブレーション治療を勧める理由
心房細動治療というと、まず脳梗塞予防が話題になります。
もちろん非常に重要です。
しかし心房細動は脳梗塞だけの病気ではありません。
長い年月をかけて心臓の拡張機能を損ない、心不全につながる可能性があります。
だからこそ、脳梗塞予防だけでなく、将来の心臓の機能を守るという意味でも、
適切なタイミングでアブレーション治療を検討する価値があると考えています。
まとめ
自然界を見ても、スポーツの世界を見ても、
そして循環器医学を学んでも、共通していることがあります。
それは、
本来の力を発揮するためには、十分な可動域が必要であること。
心臓も例外ではありません。
心房細動治療とは、脳梗塞を防ぐ治療であると同時に、心臓のしなやかな動きを守る治療でもあるのです。
【執筆】井上健司
東京ハートリズムクリニック新宿 院長
専門領域
・虚血性心疾患
・総合内科専門医・指導医
・日本循環器学会専門医
年齢とともに身体の可動域が狭くなるように、心臓もまた柔軟性を失っていきます。
心房細動治療を考えるときには、脳梗塞予防だけでなく、10年後、20年後の心臓を守るという視点も大切にしたいと思っています。
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